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書評1「テレビは見てはいけない 脱・奴隷の生き方」 テレビ、ネットとの向き合い方について

今後、自分の読んだ本のアウトプットとして、書評、内容のまとめをしていきたいと思う。

 

今回は苫米地英人氏著「テレビは見てはいけない 脱・奴隷の生き方」

 

テレビは最も手軽な洗脳装置!

視覚情報は最も、人間がリアリティ、臨場感を感じやすい情報であるため、映像メディアは我々の心の「リアリティ=それが真実であるかのように感じる個々人が持つ心理宇宙、精神世界」に多大なる影響を及ぼす。

我々はテレビから様々な情報を得るが、それが視覚情報であるためそれが真理であるように感じる。例えば、世の中のニュースを見たときに我々はそれが実際に起こってもいるところを見てもいないのにその情報を見ることによって、個人宇宙において「その事実があったと認識している精神世界」が形成される。我々は世界で起きていること、情報、学問のごく一部しか認識していないが、その認識したものが世の中であると錯覚する(人が多い、それゆえ個人世界の形成の概念を理解し、各々が無知であることを自覚し、今のリアリティとは全く違った世界があるのだという信念を持たなくてはならない)。

 

つまり、テレビを見てしまうとテレビを通して見える世界がリアルであるような個人世界、リアリティが形成されてしまい、またテレビを見る時間が増えれば増えるほどその個人世界がテレビの価値観、情報に大きな影響を受けることになる。

 

これは自分の身に起こるすべてにいえることであるが、公共テレビの危ないところは、チャンネル数の少なさ、自分自身での番組内容の選択余地がほぼないことである。

それ故、疑うことなしに毎日1時間でも2時間でもテレビを見ると見たくもない情報が無意識の領域に流れ込み個人的なリアリティを形成する。

そして、何よりテレビは様々な支配階層、あるいは広告産業の思惑を支持するような、情報を流し込む。あるいはニュースにしても中立的な報道などはありえず、絶えず誰かにとって都合のよい何かしらのねじまがった情報が流されることになる。そこに対して、疑問を抱くことなく過ごしてはいけないというのがこの本のテーマであった。

 

娯楽としてのテレビ その意義は?

テレビは娯楽であるから、とは言っても特にお笑い番組などは見ている人からすれば

「見ておもしろいじゃん」

といった意見もあるだろう。

しかし与えられる娯楽のいけないところはこのように

「テレビの中の面白さを受け入れるようなリアリティ、個人世界が形成されている」

ということである。「お笑いなんて全くおもしろくもない」という個人世界もあり得るのに、テレビはそれなりに面白いから見ようとする。でも自分で何かをすることに面白みを感じるもっと主体的生き方というリアリティも存在する。そういう人からすれば、人が何かをやっているのを見るというのは、「対して面白くない」と認定するリアリティで生きるから、自然と遠ざかっていくのである。

どちらが良いのかは、個人的にそちらを明確に選んでいるという感覚があればよいだろう。ただテレビをだらだら見ている時間があれば別のことに没頭すべきだろう。

 

またネットについても様々な情報にアクセスできるという点は評価できるが、これもいつも同じ場所の情報をだらだらと見るだけの媒体になってしまってはいけない。主体性をもって自分の知、情報、新しいものを開拓いくのだという意思がなければ結局はテレビと同じように狭いリアリティの中で生きることになる。

 

まとめ テレビ、ネットとの向き合い方

得た情報というのは必ず我々のリアリティに影響を及ぼす。それ故、自分自身がいつも同じ情報源からものを見ていないか?、他人に与えられた情報によって意図することなく本来の自分のあるべき人生の妨げをされているのではないか?

このことをテレビというものを入口に語ってくれている本である。

そのように自分の本来、目指すべきリアリティを形成するのを邪魔するようなものは現実にたくさん存在する。それって本当に必要?を問うことで自分自身が洗いなおせるのではないかというメッセージも含まれていると感じた。