完全1日1食生活スタート! 1日目
21日目 性エネルギー転換が起こると前頭前野へのドーパミン分泌が活発に!
ついに、エネルギーが脳に上がってきました!!
ここ5日間くらいはどんどんオナ禁効果を実感しています。
17日目のムラムラを乗り越えてから急激に状態がよくなり、テンションが高く性エネルギーの脳内への転換がはじまりました。
在宅でのワークもはじめ、一日5時間程度働いて残りの時間はギター、ピアノでとにかく楽しさしかなく睡眠時間も2,3時間まで減っています。
今までに感じたスーパーサイヤ人効果にはもっと強烈なものもありますが1週間で息切れしてしまうレベルで脳内でドーパミンが分泌されている感覚でしたが、今はそこまで強烈ではないくらいです。おそらく、脳のストッパーを外せばもっとエネルギーを頭にあげられるでしょう。
頭を使う空間において、楽しさを感じるということは
これに関してはyoutubeの苫米地氏の見解が非常に参考になります。
性エネルギーが上がったと自分自身の身体感覚として感じるとき、われわれの脳内では物理的には「前頭前野へのドーパミン分泌が活発になる」ということが起きています。
ドーパミンが運動野に分泌されると、運動を促します。
つまり、分泌された場所で脳がしている活動を促すわけです。
これが前頭前野まで伸びるということは、「前頭前野での活動を活発化する=脳内での様々な思考、情報空間での意識活動」が活発になる、要は頭を使へば使うほどドーパミンがでて気持ち良くなるわけです。
だから、偉大なる芸術家はこの性エネルギーを逆利用したのです。
芸術とは脳内での精神活動を物理世界に投影するものであるともいえるからです。
その精神活動を活発にするためには前頭前野のドーパミン分泌が必要なのです。
そして、それには禁欲する必要があるということです。
では今日はこの辺で
オナ禁16日目 心の変化
オナ禁 14日目 一山
2週間です。1つの山ですね。
次の山は20日、30日といったところか。
30は確実に超えていかなくては。分岐点になる一つの目安です。
精進していきたいと思います。
昨日は、食生活が少し乱れました。
別に変なものは食べていないのですが、一食小食のみにしようとしたら結局腹が減って2食食べました。流石に一食でかつ小食は今はきついので、一食で食べたいものを食べることにします。
全国のオナ禁者、成長していこう!
オナ禁と運動能力の関係について オナ禁に有効的なスポーツは?
ボクサーなどは禁欲をすることで有名だ。今日の記事では、オナ禁が運動に対して効果的である様々な理由について考察してみよう。
精子は男性の生命エネルギーであり、それゆえ蓄えられたエネルギーを発散することで爆発的な運動能力を発揮することができる。
ボクシングはまさに肉体的能力の先には、男性としての闘争本能の強さが勝敗を分けるといっても過言ではない。肉体的な能力が高くとも闘う瞬間のエネルギーが低ければまず、勝てないだろう。そういう意味で相手とのじかの闘争である格闘技においてはオナ禁は絶対的に有効である。
また、生命エネルギーが高いことは特に持久力に影響を与える。
そのため、特に長距離走では禁欲の効果を大きく実感することができるだろう。
私の場合オナ禁初期とオナ禁30日以上では、5000mの記録が2,3分も変わってしまう。
マラソンなどではおそらく長期的にオナ禁が続いている状態と昨日射精した状態では素人の場合10分以上の記録の差が生まれるのではないかと思う。
だから私は、マラソンランナーや長距離選手にはオナ禁は有利であると考える。
瞬発系の種目では例えば100mや走り幅跳びなど一瞬で力を出す種目に関しては、あまり変化がないように思う。というのも、オナ禁時でも瞬間的な筋肉の最大出力が高くなるということは無いと考えるからだ。それでも短距離といえども400m程度の種目となるとやはりラスト100mの粘れるかどうかが勝敗を分ける。このような瞬発的なエネルギーを必要として、かつ力をある一定時間出し続ける必要がある瞬発と持久の兼ね合いの種目ではオナ禁は有効であると考える。
その他、サッカーなども瞬発と持久のいずれも求められる。
高いカロリー消費をするような種目を総じてオナ禁の恩恵を受けるだろう。
まとめると、私が最もオナ禁に有効的であると考える順番は
1.格闘系
2.持久系
3.瞬発系でかつ持久力も求められる
4.完全な瞬発系
だ。一意見として参考にしていただけたら幸いである。
書評1「テレビは見てはいけない 脱・奴隷の生き方」 テレビ、ネットとの向き合い方について
今後、自分の読んだ本のアウトプットとして、書評、内容のまとめをしていきたいと思う。
今回は苫米地英人氏著「テレビは見てはいけない 脱・奴隷の生き方」
テレビは最も手軽な洗脳装置!
視覚情報は最も、人間がリアリティ、臨場感を感じやすい情報であるため、映像メディアは我々の心の「リアリティ=それが真実であるかのように感じる個々人が持つ心理宇宙、精神世界」に多大なる影響を及ぼす。
我々はテレビから様々な情報を得るが、それが視覚情報であるためそれが真理であるように感じる。例えば、世の中のニュースを見たときに我々はそれが実際に起こってもいるところを見てもいないのにその情報を見ることによって、個人宇宙において「その事実があったと認識している精神世界」が形成される。我々は世界で起きていること、情報、学問のごく一部しか認識していないが、その認識したものが世の中であると錯覚する(人が多い、それゆえ個人世界の形成の概念を理解し、各々が無知であることを自覚し、今のリアリティとは全く違った世界があるのだという信念を持たなくてはならない)。
つまり、テレビを見てしまうとテレビを通して見える世界がリアルであるような個人世界、リアリティが形成されてしまい、またテレビを見る時間が増えれば増えるほどその個人世界がテレビの価値観、情報に大きな影響を受けることになる。
これは自分の身に起こるすべてにいえることであるが、公共テレビの危ないところは、チャンネル数の少なさ、自分自身での番組内容の選択余地がほぼないことである。
それ故、疑うことなしに毎日1時間でも2時間でもテレビを見ると見たくもない情報が無意識の領域に流れ込み個人的なリアリティを形成する。
そして、何よりテレビは様々な支配階層、あるいは広告産業の思惑を支持するような、情報を流し込む。あるいはニュースにしても中立的な報道などはありえず、絶えず誰かにとって都合のよい何かしらのねじまがった情報が流されることになる。そこに対して、疑問を抱くことなく過ごしてはいけないというのがこの本のテーマであった。
娯楽としてのテレビ その意義は?
テレビは娯楽であるから、とは言っても特にお笑い番組などは見ている人からすれば
「見ておもしろいじゃん」
といった意見もあるだろう。
しかし与えられる娯楽のいけないところはこのように
「テレビの中の面白さを受け入れるようなリアリティ、個人世界が形成されている」
ということである。「お笑いなんて全くおもしろくもない」という個人世界もあり得るのに、テレビはそれなりに面白いから見ようとする。でも自分で何かをすることに面白みを感じるもっと主体的生き方というリアリティも存在する。そういう人からすれば、人が何かをやっているのを見るというのは、「対して面白くない」と認定するリアリティで生きるから、自然と遠ざかっていくのである。
どちらが良いのかは、個人的にそちらを明確に選んでいるという感覚があればよいだろう。ただテレビをだらだら見ている時間があれば別のことに没頭すべきだろう。
またネットについても様々な情報にアクセスできるという点は評価できるが、これもいつも同じ場所の情報をだらだらと見るだけの媒体になってしまってはいけない。主体性をもって自分の知、情報、新しいものを開拓いくのだという意思がなければ結局はテレビと同じように狭いリアリティの中で生きることになる。
まとめ テレビ、ネットとの向き合い方
得た情報というのは必ず我々のリアリティに影響を及ぼす。それ故、自分自身がいつも同じ情報源からものを見ていないか?、他人に与えられた情報によって意図することなく本来の自分のあるべき人生の妨げをされているのではないか?
このことをテレビというものを入口に語ってくれている本である。
そのように自分の本来、目指すべきリアリティを形成するのを邪魔するようなものは現実にたくさん存在する。それって本当に必要?を問うことで自分自身が洗いなおせるのではないかというメッセージも含まれていると感じた。